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英国エディンバラ大学Senior Research Doctorate of the Visual Arts and Culture.(映像芸術文化学上級研究博士).
現在、PCL Fémis (旧パリ映画研究高等学院、元フランス国立映画研究高等学院による芸術プログラム)+ UPC(パリ大学連合コンソシアーム)のメンバーということになっています。というのも、コロナの関係でリモート化した時期に「じゃ、いっそ応募してみっか」とダメモトで応募した研究プログラムが採用されたのですが、子どもの頃の病気の治療の後遺症などで、海外に持ち出せない(やれるけど、たぶん1週間がいいとこ)薬を複数飲んでいるのと、後遺症由来で体力が衰え、凄く疲れやすく、1日活動すると数日寝込むことが多く、研究拠点で勤務できないため、研究プログラムの支援を日本にいながら受けて、成果(論文や作品など)が向こうに行くような形になっています。
私自身が、研究者でもありますが、まだ元気だった20代まで声優を目指して養成所に通っていたり、企業ナレーションや舞台やイベントのPAや影ナレもしていた表現者です。(演技がそこまで巧くないながら、高校の部活でアナウンスの全国大会まで出たのが功を奏し、声優事務所に挑戦したところ声優採用は見送りになり、「制作部門」付けで、イベントのナレーションやローカルラジオの制作セクションに送られました。まぁ、その方が仕事貰えたのは事実。紆余曲折して30歳で国内の大学院に進んだ時期に、どうしても千葉ローカルの朝番のMCやってくれないか、と言われ、朝5時に市原とか転居しないと無理だし、深夜ラジオがやりたくて飛び込んだ世界でもあるのに、平日毎朝7時〜12時なんて絶対に苦情しか来ないと懸命に断ったんですが、研究も忙しいなか、この件で居づらくなって、フリーという名の廃業に至りました)
専門は特に映画とアニメですが、現代芸術全般が領域になるので、モリエールやシェイクスピア以後つまり16世紀以後の近代演劇から現代パフォーマンス、映画は1989年発祥なので、すべてが領域になりますね。
私は、いま40代ですが、一番、カメラに触っていたのは、1980年代です。
祖父がカメラ好きで、正しいカメラ小僧として、年齢に適したカメラを与えられ育てられました。
小中高と、ずっとクラスの写真係をやっては、外注カメラマンより良い評判を得ていて、中高では、私のいるクラスは、イベントごとに私が集合写真を撮るのが恒例になっていたほどです。
一眼レフは小学校4年で、コンパクト一眼を与えられて以来の付き合いで、15~6の頃には、銀塩一眼レフでAF機構なし、自動露出なしでも、ヤマカンで撮影しても思い通りに撮影できていたものです。
が、某声優椎名へきるとの出会いがあり、声優に憧れ、洋楽ロックにハマり、生徒会議長と部活を5つ兼務した高校には、年に350日は学校にいて、彼女ができたり(これがメインか)カメラと距離ができている間に、時代はデジタルになっていました。
祖父の遺言で、中判カメラ(ブローニというもので、業者がスタジオで使う前提のため、カメラ本体だけで5〜6キロ近い)を受け取り、引き伸ばし機、さらにはカラー現像機まで引き取り、最後までフィルムと付き合ってくつもりだったんですが、まぁ、1本1000〜2000円で、現像代別だと、やはりデジタルシフトしたくなり。
15年くらい前から、ぼちぼちデジタル化してるんですが、やはり、完全に手足のようには撮れないままです。
ISO値が動くとか、ISO3600とか、わたしのなかの前提に無いんですよ(苦笑)
だいたい、写真の芸術学的な定義は、「ありのままの現実を切り取る」ことなんですが、レタッチしたら「現実」ではなくて、1969年以後のヌーヴェルヴァーグ芸術は、それこそが「写真であり、その連続体である映画が揺るぎない真実である」ことに「芸術性」を見出し、これを「写実的レアレスム」と言い、絵画芸術より写真の方が優れた芸術だというのが、現代芸術の根本的な考え方です。AGFA Ultraを使おうと、シャッターを切った、レンズが見た「光景=事実」であることが、写真や実写映画が「事実を切り取り、レンズが見た瞬間をフィルムに焼き付ける=社会を描く小窓である」ということが、写真芸術、映画芸術の現代的な価値とされてきました。
映画『アメリ』が典型的とされ、『ターミネーター2』あたりからハリウッドは曲がり角に立ちましたが、現実には無い場所や監督の思いのままに画像を加工するヌーヴェル・ヌーヴェルバーグ(新・新みたいな言葉)は、むしろ、ヌーヴェルヴァーグ以前のマルセル・カルネなどによりパースを意図的に歪めたスタジオで、完全なセットのなかで、すべてを計算して撮影し、フィルムのなかには監督の望んだ絵面しかない「詩的レアリスム」への逆行とも言えます。
だから、私はデジタル撮影してRAWを自動で現像処理したあと、あまりイジらないというか、イジって加工することに抵抗があるんですね。
もちろん、それでしか得られない効果や、それが心を揺さぶるインパクトにつながるのかも知れないことは否定しませんが、思い通りの絵にしようと、「真実」を加工して、好きにイジってしまうことは、何が現実か、立脚点を失うというか、「自分の捉える世界という基軸」を力で歪めてしまうような、もっといえば、だったら、写真を「撮影する意味」って、そもそも何なの?AI生成でなくとも、写真の登場以前は、多くの写真家の仕事は、肖像画を描く画家がやってたとされますが、踏み込んでしまうと「おれは絵描きじゃない!カメラ屋だ!!」って意地があるっていうのかな。
小学生のころまで、毎月富士山に行っていましたが、10年以上、通って、満足いった富士山の写真って、2枚だけなんですよ。
描いてしまえば、たぶん簡単だけど、そうではなく、「瞬間と出会えるか」だし、あるいは「出会った記録であり、証拠」が「写真」なんです。
だから、どんなにピンズレしていようと、モデルさんの肌のテンションが低いとか、まだ顔がこわばっているな、おれもうちょっと何かトークしないとなぁ、とか、100枚でも500枚でも、自分が撮影した写真は全部が等しく愛しいものでした。
それが「失敗」「ダメ」「これ邪魔だから加工するか」ってなると、1枚1枚に愛情が見出せなくなるし、それって、被写体への愛情を失うことと同じことになる気がするんですね。
たとえ、中年のさえないオッサンを撮影するにせよ、レンズを向けるってことは、相手に愛情を注げないなら、失礼な存在だと思うんです。プライベートに割り込んでくるし、隠したいものも有りの侭に記録してしまうんだから。
そうしたいろいろを考えてたどり着いたのは、私は女性の裸体でしたね。
これについては、日本では女性のヌードというと「エロ」とするという悪しき考えがまだ根強いことが、いま、私がフランス方面でやっている研究とリンクしてきます。
男女平権が進んでいるヨーロッパとの認識の差が著しいと思いますが、はっきり言えば、女性の裸体をして、それだけでわいせつとして排除するというのは、ジェンダー的な不平等だ、ということです。
フランスやドイツでは、街中で男女両性のパフォーマーが、街中のあちこちで全裸のパフォーマンスを行う芸術祭もあります。
日本でも、平成の初期には、渋谷のスクランブル交差点で早朝にヌード撮影をした作品などがそれなりにありましたが、フェミニスムに対する基本的な考え方の浅さ、裸の女性=男性を興奮させる=女性が搾取される、という、米国でも一部の80年代フェミニスムが活動家にも研究者にも台頭しています。
米国の場合は、キリスト教的な背景があって、そこから資金が得られるんですよ、中絶反対とか、トランプ支持みたいなところと被っているんですが、共和党でも知識階層ではない、「人は神がつくったものだ」として、ダーウィンの進化論を否定して、学校で教えると抗議をし、中絶しないと死んでしまう妊婦に「おまえはひとごろしだ!」っていう、一部のカソリック系保守です。
カソリックは、新旧両方の聖書を教義としますが、「イブ(女性)は、アダム(男性)の肋骨から作られた」もので、
人類が現在を背負ったのは、「悪魔の誘惑に負けた愚かなイブによって、楽園から追放された」というもので、
ここから、「裸体」が「浅ましいもの」「恥ずかしいもの」として否定されるようになりました。
カソリック時代のローマでは、ルネサンス美術(人間の「自然回帰」=「人間は自然に、そのものが美しいのだから、裸も崇高であり、神と同じ姿である」という考え方です)の絵画に、上からヴェールが描かれたりしてきましたが、基本的には「女性の裸は浅ましく、いやらしい」だから「(知恵の実であるリンゴのように)男性を誘惑して罪に堕とす」という、明確な女性蔑視です。
私は男性のゴツゴツして隆々とした筋肉なども被写体として素晴らしいと思いますが、
私が男であるので、自分には存在しない女性の柔らかな曲線ほど、美しく、崇高で優しさを示すものは無いと思っています。
フランス映画では、セックスするシーンは、本当にセックスをして撮影して(もちろん事前に同意形成をなんども行います)
日本では無理でしょうが、ヴァギナにペニスが出し入れされるところが、スクリーンで上映されることもあります。
別にポルノではなくて、人間の当たり前の営みを記録することが映画の芸術性なので、ハリウッドと異なり
吹き替えをする女優さんもいないと思います。そういうシーンがある演劇もありますしね。
***もちろん、そういう撮影はしません。***
ポリシー違反をする気もないですし、いまの私の考えている文脈に、そういうシーンは無いので。
ただ、少し言いたいと思ったのは、大スクリーンで、性交している局部のドアップが上映されても、
「猥褻」とか「エロい」とは、あまり思わないっていう不思議さです。
それよりも、女優さんの魅力によって、俳優さんのペニスに血流が送り込まれて、勃起していく容態や
徐々に狭かった女優さんの性器が広がって、「男性を受け入れる」準備ができてくることや
充血した陰核と陰毛が美しく輝いていることに、人間というものの美しさ、というか、
「ああ、これが人間で、この営みは人間の自然な姿で、だから女性の裸体は美しいと思えるのか」と
腑に落ちるのです。
また、「受け入れられるようになっていく」経過は、それほど魅力的と自分からは思えなかった女優が
明らかに、肌の色合いが鮮やかになり、垂れていた乳房が張ってきたり、乳首がツンとして充血して乳房ごと大きくなり、
女性が本当に魅力的になっていくことを、凝視させられるものでもあります。
残念ながら、日本でそうした作品は見れないですし、セックスシーンがあっても
男性の欲望を煽ることが重視されていて、そういう感動が語れないことが、
ポルノやアダルトビデオと、こうした芸術的な映画が完全に隔たり、異なるものだからですが。
撮影を通じながら、女性の美しさを再発見していく、これが、久しぶりに自分でカメラを手に取ろうと思う理由です。
そこで、ともに作品作りをしてくださる方がいれば、と思っています。
もちろん、同意がない内容を無理強いするようなことはありません。
当たり前中の当たり前ですけどね。
で、可能な限り、トリミングをかけたり、露出値を現像時点で変更したり、フィルムでも可能だったこと以上は、私はやらないことにしています。
まぁ、暇つぶしに遊ぶことはあれど、現像時点で完成だと、私は位置付けています。
もちろん、取り決め次第ですが、データはすべて差し上げますので、それを加工されるのは、好きにされて構わないですが。
あと、白黒フィルムとか中華フィルムを、少し使ってみるかも知れません。
それは、データ化すると思いますが、特に特殊なフィルムは写真屋に現像液が汚れるとか怒られたりするので、自分でラボに入って現像する場合は、最大で半年くらい先かもです。いま、個人で立ち寄りで使えるプロラボが数えるほどで、すげぇ高いんで...。